暇すけは漆黒企業で奮闘中

雑記ブログなので、何から何まで記事にします。基本雑学ですが、英語関係、筋トレ関係が多くなるかもしれません。

任天堂の歴史から学べること【世界的有名企業になるまでの道のり】

世界的な有名企業となっている任天堂。感動の出会いと別れを繰り返し今の任天堂があります。商品開発に定評がある任天堂ですが、今回はそれに携わった4名の伝説に焦点を当てて紹介していきます。この記事から、次のことを知ることができます。

  1. 任天堂の誕生秘話。
  2. 任天堂が世界的企業になるまでの道のり
  3. 人との出会いが人生を変えるということ
  4. 失敗を経験しているものが、 成功できるということ

伝説の1人目 独裁社長、山内溥さん

1949年、当時株式会社丸福(現任天堂)の社長であった山内さんの祖父が倒れました。山内家は身内での経営を基本としていたため、若干22才で大学在学中だった山内さんが会社を継ぐことになりました。彼はその後、徹底的な独裁経営と持ち前のカリスマ性を生かし、様々な偉業を成し遂げることとなりました。

自分以外の身内社員全員の解雇

身内での経営をしていたから社長に就任した山内さんですが、社長就任の条件として、

「自分以外の山内家の全員の解雇」

を申し出たそうです。そのため山内さんの社長就任後、他の身内社員は全員会社を辞めたと言われています。また、山内さんは社内の情報が外に漏れることを徹底的に嫌っていたので、この情報も噂であり確かではありません。

 

素晴らしき発想とアイデアによる業績の回復

僕たちのビジネスというのは、勝ったら天に昇るけれども、負けたら地に沈む。だから、それはもう、素晴らしい発想が出てくるのか、こないのか、アイデアにかかっている」 …… 山内

井上理. 任天堂“驚き”を生む方程式 

昔の任天堂は、タクシー業界や食品業界など、今では考えられないほど様々な事業に着手していました。赤字で経営が危ぶまれることもある中、山内さんが注目したのはトランプでした。当時のトランプは、任天堂の主力商品だった花札やカルタと同じ材質でお世辞にも質が良いとは言えなかったのです。「若者に何ができる。」と山内社長への反発もあるなか、まったく気にせず社内改革に取り組んでいました。

山内さんが考案した世界初のプラスティック製のトランプは爆発的大ヒット。また、トランプをもっと子供にも使ってほしいと、ウォルト・ディズニーとも交渉しディズニートランプを販売。更に子供が遊べるカードゲームの遊び方の説明書を同梱し、これまた大好評。一躍業界トップに躍り出たのでした。

その後、焦りから始まる多くの失敗

一時期カードゲーム業界トップの成績を収めていた任天堂ですが、山内さんが他社の大手のカード社に視察に行き、その大きさから、「このままでは勝てない。」と思ったそうです。

それから山内さんは様々な業界に手を出し始めます。タクシー会社の設立、食品産業への参入、ベビーカー業界やラブホテル業界など。そして、そのすべてがことごとく失敗。投資ばかりがかさみ商品は売れず、任天堂がいつ潰れてもおかしくない状態でした。山内さんも「どうしたら良いのかわからない。」と迷走していたそうです。

伝説の2人目 アイデアの天才、横井軍平さん

ゲームをしている画像

そんな任天堂に偶然入社してきた伝説の2人目、それが横井さんです。学校の成績も良いほうではなく、就職活動にも苦戦していたとのことで任天堂に面接に来ていました。山内さんも、工学部出身で何の役に立つかはわからないながらも、設備のメンテナンスのために採用したような形でした。実際、横井さんは入社後はとても退屈だったと話をしています。

その後は商品開発に携わることになった横井さんですが、横井さんには商品開発の際の有名なモットーがあります。それが有名な

枯れた技術の水平思考

です。

爆発的大ヒット ウルトラハンドの秘密

ウルトラハンドの画像

横井さんが仕事の暇つぶしに考えてたアイデア商品、これが山内さんの目に留まり商品化されたのがこのウルトラハンドです。当時、玩具が10万から20万個ほど売れたら大ヒットと言われていた時代に、このウルトラハンドは140万個以上売れています。これをきっかけに、横井さんが開発した玩具は売れまくりました。まさに、潰れかけていた任天堂の救世主的存在です。

その後光線銃シリーズを発売し、その玩具を使った世界発のレジャー施設も建設し、お客様やメディアが殺到していました。この時には山内さんも、他業種は一切手を出さず玩具関係一本でいくと、覚悟を決め、他業種からは撤退をしていました。

そんなときに、日本がオイルショックに襲われたのでした。注文はなくなり、オーダーのキャンセルが相次ぎ、再度大量の負債を抱えてしまうのでした。

伝説の3人目 偶然入社したデザイナー、宮本茂さん

スーパーマリオ、ドンキーコング、ゼルダの伝説の生みの親と言えば、そのすごさがわかるでしょうか。間違いなく、任天堂が世界的に有名になるのを支えた一人になります

当初、任天堂はデザイナーを募集していませんでした。しかしあるコネがあり、宮本さんは特例で面接を受けさせてもらえることになりました。山内さんもそこまで乗り気ではなかったのですが、物作りに対する熱意に打たれ、採用したようでした。この時には、任天堂の発展を支える伝説の1人になるとは、誰も思わなかったでしょう。

任天堂市場最高のヒット作 ゲーム&ウォッチの誕生

電車で、サラリーマンが暇つぶしに電卓で遊んでいるのを横井さんが見ました。そこから任天堂至上最大のヒット作、ゲーム&ウォッチが誕生しましたこの売り上げは、多角経営からの負債やオイルショックの負債のすべてを完済でき、それでも利益が余るほどでした。このゲーム&ウォッチの誕生には、まさに横井さんのモットー「枯れた技術の水平思考」が詰め込まれていました。

宮本さんが世界的に有名キャラクター、マリオを考案

横井さんの開発したゲーム&ウォッチの爆発的なヒットにより、資金的にも余裕ができた任天堂。いつもであればここからまたトラブルがあり、失敗する流れです。しかし、今回は違います。宮本さんが続いてヒット作を量産するのです。その最初に作ったキャラクターが、「ドンキーコング」そして「マリオ」でした

アーケードゲームでのドンキーコングはアメリカでも大ヒットを飛ばしていました。そのため、しばらくアーケードゲームの市場で戦うのだと思うところ、ここで、山内社長が次のように提案をしました。

「アーケードゲームからは撤退。家族で家でプレイできる、家庭用のアーケードゲームを開発しよう」と。

そこで生まれたのが、ファミリーコンピューターです。このとき、宮本さんは「あれだだけアーケードゲームで売り上げを記録したのに、こんなことしてていいのだろうか。」と思ったそうです。

ゲーム界の革命的ソフト、スーパーマリオブラザーズ発売

ファミリーコンピューターを開発した任天堂。当然、ソフトも開発を始めます。そして、宮本さんがそのゲーム開発に携わるのです。アーケードゲーム、ドンキーコングに登場していたおっさん。後にマリオと名付けられましたが、そのマリオが主人公の横スクロールゲームです。もはや知らない人はいないでしょう。

そして、このスーパーマリオが空前の大ヒット。その売り上げは、横井さんが記録したゲーム&ウォッチに引けを取らない勢いで売れていました。全世界でマリオブームです。

その後も、横井さんのゲームボーイの開発など、横井さんと宮本さんで二人三脚で任天堂を引っ張っていきます。

 

伝説の4人目 天才プログラマー岩田聡さん

プログラマーの画像

ここで登場するのが、超天才プログラマーの岩田さんです。また、経営の手腕もあり、任天堂の山内さんの次期社長にはこの岩田さんが任命されています。任天堂と関わり始めた当時、岩田さんは「HAL研究所」というソフトウェア会社の社員でした。

岩田さんと山内社長との出会い

「ファミコンのソフトを作らせてほしい」と任天堂に営業に来たのでした。ファミコンのプログラムは難しいと山内さんが話をしたところ、既に解析をしておりすべてわかっているとのこと。しかし、HAL研究所でコードがわかるのは岩田さんだけで、ファミコンも一人で解析したということに驚いた山内さんは、岩田さんにソフトの開発の許可を出すのでした。

その後、スーパーマリオの海の中でのプログラミングの手助けを行ったり、任天堂がてこずっていたMother2のプログラミングをわずか半年で仕上げたり。最終的には任天堂とHAL研究所の構築環境をネットでつないだり、使用言語を大幅に変更させたりなど、その天才っぷりを遺憾なく発揮し、任天堂に貢献をしていました。疑いもなく、プログラミングの天才です。

HAL研究所の倒産とその救済の条件

ゲーム事業や不動産投資への失敗から、HAL研究所は、倒産の申請を行っていました。そんなときに、山内さんが、岩田さんに連絡をしたのです。

「岩田が社長をやるなら、負債額を全額返済してやる」と。

こうして、任天堂当時社長の山内さんにHAL研究所を救ってもらい、岩田さんがHAL研究所の社長となったのでした。

岩田さんには経営者としての手腕の備わっており、社員全員との面談を行ったり星のカービィで大ヒットを記録させたりなど、会社の持ち直しに見事成功しました。その後、任天堂の取締役にも任命されています。

このとき、任天堂を支えて世界的な大企業まで成長させた4人が任天堂に揃ったのです。

 

伝説の1人、横井さんの退社と死

任天堂のピンチを幾度となく救った救世主、横井さん。昔から自分の会社のを持つことが夢で、50歳を超えたら好きなことをすると話をしていました。そのため、横井さんは55歳で自主退社をしましたウルトラハンドからその他多くの人気に玩具を開発し、ゲーム&ウォッチ、そしてゲームボーイの開発と、今の任天堂があるのは確実に横井さんによる功績も大きいでしょう。ある事業の失敗の責任を取って辞めたのではとも噂をされましたが、本人が自主退社だと反論をしています。

そして退社から1年後、横井さんは事故で亡くなりました。任天堂を大きくした伝説の1人の、あまりにも早い死でした。現在世界で大流行しているポケモンも、初めは横井さんが開発したゲームボーイからなのですから、その功績は計り知れません

 

山内社長の引退

「誰も僕に辞めろと言えないんだから、自分で判断しないといけない。」と言って、カリスマ独裁経営者と言われていた山内社長が引退を決意しました。独裁経営と言えば悪く聞こえますが、社員は皆、山内さんの笑顔を見るために開発に取り組んでいたというほど、部下からは慕われていたそうです。

任天堂は、代々身内の経営で来ていました。そのため、次の社長は山内家誰かが継ぐのかと話されていました。しかし、山内さんは当然そんなことをするわけがありませんでした。なんとここで時期社長に指名されたのが、まだ入社2年目の、4人目の伝説、岩田さんだったのです

 

引退時の岩田さんへの話

3時間もの間、岩田さんに経営に関する知識や経験を語ったと言われています。その中には、過去の自分の失敗であった「異業種には絶対に手を出さないこと」という内容も含まれていました。また驚くべきことがこのときに話されていました。山内さんは「2画面の携帯ゲーム機」「3Dで見れるゲーム機」のアイデアをこのときに提案していたそうなのです。言うまでもなく、大人気携帯ゲーム機になったニンテンドーDSや3DSは、岩田さんが山内さんのアイデアを形にしたものだったのです。その後、しばらくは相談役として岩田さんを助けて言った後、2013年に85歳で亡くなりました。

 

任天堂のその後とまとめ

皆さんも知る通り、その後も任天堂は快進撃を続けてきました。今やマリオポケモンは世界中で大人気のキャラクターです。また、最近ではニンテンドースイッチを発売し、世間を賑わせましたね。残念ながら、岩田さんはニンテンドースイッチの開発発表の直後に亡くなっておられます。

現在、伝説の4人の中で生きておられるのは、宮本茂さん1人です。少し寂しい気もしますが、世界で影響力のある人物100人に選ばれたこともある宮本さんです。任天堂にはまだまだ優秀な方がおられます。昨今に世界の技術力に押され気味の日本ですが、任天堂はまだまだ負けていません。今後も、任天堂の世界での活躍に期待したいと思っています。

関連記事はこちら

お金は使うという考え方【お金持ちになる方法】 - 暇すけは漆黒企業で奮闘中

成功がグッと近づく!目的達成するための段階別目標設定の方法 - 暇すけは漆黒企業で奮闘中

読者になるボタン ブロトピ:今日のブログ更新